1.「上北沢地区」の歴史と地理

 

■歴史地理的背景
 上北沢は、世田谷区では北部に位置し、甲州街道に接し、商店街の1/8は杉並区に属します。
 現在、我々は、頭の中の座標軸を京王線に、或いは甲州街道に置いていますが、甲州街道は約400年前の1604年に出来た、比較的新しい主要道路です。それ以前は、「滝坂道」と呼ばれている古道が、江戸湾と府中及び山梨県地域を結ぶ主要道路であったといわれています。
 旧上北沢1丁目(現桜上水4丁目)には、1026年創建の「勝利八幡神社」が在り、「滝坂道」にも接しているところから、「上北沢」は、「府中が武蔵之国の中心」であった時代から村落を形成していた、古くからのコミュニティーであったと思われます。
 現在の上北沢5丁目は、京王のバス車庫周辺を除き、ほぼ台地状で、つい20年ほど前までは、北半分は畑でした。この5丁目と4丁目・2丁目を開拓したのが山室氏で、その後裔は現在も5丁目の甲州街道に面した所で酒類を扱って居られます。現在2丁目は全て松沢病院ですが、ここも元は山室氏の醤油工場だった所と言われています。地図を見ますと、上北沢5丁目が杉並区に侵入している様に見えますが、正確には、上北沢が「勝利八幡神社」を原点として、北西に向かってぐんぐん発展して行った所に、17世紀の初頭に甲州街道が斜めに横切る事に成ったと考えた方が現実的だと思われます。
 江戸時時代には、上北沢は、牡丹・枝垂桜・藤の名所としても知られ、緑ヶ丘中学の辺りが牡丹園で、名所絵図にも載っている程です。江戸城の松の兄弟と言われている松が、現在も桜上水3丁目(旧上北沢1丁目)の早苗保育園に残っています。
 尚、江戸時代に江戸の街から牡丹見物に来た道は、下高井戸から甲州街道を別れ日本大学の前を通る道ですが、当時は「滝坂北道」と呼ばれていた様です。 

■住宅地の開発
 大正13年(1924年)第一土地建物会社が、京王線の南側と北側に住宅地を開発してから宅地化が進み、特に当時の上北沢駅前広場から南西に伸びる約200mの桜並木は、桜新町の桜と並び有名でした。第一土地建物の住宅地には「桜通り自治会」が設立され、現在の駅南隣の警察派出所と駅入口の場所に集会所が有り、月例会で住民が意見を述べ合い、桜並木の管理等も行なわれていた様です(当時の世田谷区は人口も少なく、企業も小規模なものしかなく、当然、税収入は少なく、桜並木の管理等は自分達で処理するほか無かったのです)。
 1924年前後の住宅地は、他に田園調布があり、成城学園は更に遅く小田急が開通した1927年(昭和2年)以降に成ります。246号線沿いの桜新町住宅地は1913年(大正2年)頃の開発で、先輩格に当ります。
 尚、近隣住宅地の開発は、上北沢5丁目、旧上北沢1丁目(現桜上水5丁目)も昭和初年に完了しています。
 この近辺は桜の生育に適している為か、そこここに小規模の桜並木が多数ありましたが、現在では殆ど消滅しています。その痕跡は、僅かに、桜上水住宅展示場の西側に南北に一列の桜が有りますが、これは以前の「日本聾話学校」と京王電鉄の車庫との間にあった桜並木の片割れです。

■昭和20年代
 太平洋戦争に負けて価値観が180度変わり、日本人、特に男性は自信を消失しました。その中に在って、上北沢周辺の女性連中は意気壮健でした。何しろ今迄威張っていた男どもと、対等に権利が主張出来る時代に為ったのですから。以前から在った「愛国婦人会」は、戦前は男どもから毛嫌いされていた「運動家」を顧問に迎え、「男女同権」の啓蒙運動が始まりました。八幡山には都心から疎開してきた大宅壮一が居り、この大宅夫妻の影響力も有ったと思われますが、上北沢周辺では女性主導でイロイロな文化活動も始まり、かなり注目された地域となりました。
  然し、何と言っても日本中に大きな影響を与えたのは、松沢教会の賀川牧師です。賀川豊彦氏は、関東大震災以前から協同組合運動等で社会福祉運動家として、またベストセラー作家としても知られ、関東大震災には、復興支援に神戸から駆けつけ、昭和6年以降は、教会と住居を上北沢に構えて、社会福祉と宣教運動に邁進されていました。
  敗戦後、共産主義が大変な勢いで日本中に吹き荒れましたが、マルクス以外の社会主義を期待する勢力も増加しました。賀川氏は、英国社会主義に造詣が深く、その啓蒙に勤められました。当時、社会党右派と言われた人達は、ほとんど賀川氏の影響を受けていると言われています。そんな訳で、松沢教会の日曜礼拝には、キリスト教信者でもない人達で教会は一杯になり、賀川氏の話を聞きたい為に、上北沢周辺に住居を移す人達も多数居りました。特に、現上北沢4丁目の京王電鉄所有地には、ライシャワー元駐日大使のご両親が建てた「日本聾話学校」が在り、松沢教会とは関係が深く、双方に近い現桜上水5丁目には聾話学校の外人宣教師が戦前から住んでいて、近所付き合いも活発でしたので、桜上水5丁目(元上北沢1丁目)は松沢教会の影響力の強い地域でした。尚、八幡山の大宅壮一氏も、嘗ての師であった賀川氏を頼って隣町に疎開して来たと述べています。
  以上のような訳で、昭和30年代の半ば頃まで、上北沢周辺は偉大なる情報発信基地でありました。