4.上北沢・八幡山地域の歴史的・文化的資産

 

1.賀川豊彦記念松沢資料館(上北沢3-8)
 宗教家・社会事業家として世界的にも著名な賀川豊彦氏が、関東大震災救済活動を機に、居を関西から関東に移し、本格的伝道活動の拠点として、昭和6年完成の旧松沢教会礼拝堂を含む、貴重な資料が展示され、庶民の生活を知る上でも貴重な資料館。 

2.松沢教会・付属幼稚園(上北沢3-8)
 賀川豊彦が昭和6年以降直接指導に当たり、特に戦後の混乱期には、非マルクス主義の発信基地として、日曜礼拝には信者以外の人々の出席も多く、幼稚園を含め、その薫陶を受けた人々は、現在社会の各層で活躍している。
 パイプオルガンは海外から寄贈された物であるが、この規模の教会としては珍しく、演奏会もしばしば開かれ、誰でも出席できる。
む、貴重な資料が展示され、庶民の生活を知る上でも貴重な資料館。 

3.大宅壮一文庫(八幡山3-1)
 旧・古府中道(後述)に面し、週刊誌を中心とする図書資料館としてユニークな存在。
 大宅壮一氏は賀川豊彦氏との関係も有って、隣町の八幡山に疎開して来たもので、その庭先の事務所が資料館として整備された。

4.松沢病院・将軍池(上北沢2丁目)
 本来、地元の醤油工場であった林を整備して、巣鴨駕籠町にあった巣鴨病院が1919年(大正8年)に移転して来たもので、敷地内に湧水も豊富で有る事から、2年後に築山と池を作り治療環境を整備した。当時としては、患者重視の最先端病院であった。
 昭和初年、「アシハラ将軍」と自称する大礼服を着た独特のキャラクターの患者が居り、しばしば新聞記事に登場した事から、上述の池に「将軍池」の名が付いた。
 尚、「アシハラ将軍」の本名は蘆原金次郎で、1937年88歳で亡くなったが、病院内には北沢用水もあり、蘆が一杯生い茂っていた。

5.古府中道(上北沢2・4丁目、桜上水1・2丁目)
 松沢病院西側バス通りで、南は「滝坂道」と合し、北は甲州街道以北が一部不明であるが、北烏山と杉並区との境界道路と為り、さらに「人見街道」と合して府中に達している古道である。
 世田谷区では「滝坂道」の方が有名であるが「滝坂」の難所を避けて通れる為、利用者は多かったのではないかと思われる。
 桜上水・上北沢地区に関しては、「赤堤通り」と呼ばれ、現在でも渋谷方面と甲州街道を結ぶ重要道路として交通量が多く、「五・十日」・週末・夜間の渋滞は大きいが、世田谷区はこの点の認識が全然無い点が問題である。
 古府中道の最大の意味は、この道が「旧荏原郡」と「旧多摩郡」の境界であった事で、「武蔵の国」が646年に出来た事実からして、それ以前から存在していた道と考えられる事である。 前述3.大宅壮一文庫と合わせ、「風景づくり」の条件に合致する。

6.五地蔵・安楽寺跡(上北沢5-9)
 甲州街道がオリンピックで拡幅されるまでは、五地蔵は甲州街道沿いに有ったが、現在は10メートルほど北の旧安楽寺の墓地入口に移動されている。
 安楽寺は甲州街道開設と同時期の慶長年間に創設され、山谷地区の信仰の中心であった。寺子屋の開かれていた時期もあり、「高井戸学校」と呼ばれていた由。明治18年に、当時の廃仏棄釈の風潮からか、本村の密蔵院に合併され、墓地だけ残されている。

7.上北沢勝利八幡神社(桜上水4-21)
 1026年(万寿3年)に京都の石清水八幡宮を勧請した、恐らく区内最古の八幡神社。
 当時の上北沢村は、「古・府中道」と「滝坂道」に面している上に、稲作の収穫量も多く、村落を形成する条件は平安時代以前から十分整っていたと推測される。
 本殿右側には、1788年(天明8年)製作の旧本殿が保存されており、区・指定有形文化財に成っている。

8.「江戸城御囲い松」の兄弟松と「北沢用水緑道」(桜上水3-18)
 早苗保育園の東端「旧北沢用水」の緑道に面し、黒松の古木が2本有るが、寛永年間に江戸城に植樹された苗木と同じ黒松で、樹齢約370年といわれる。この松が有るので付近に越して来たと話している方に出会ったが、「北沢用水緑道」と組合わせると、なかなか良い絵になり、「風景づくり」の条件にピッタリ当てはまる。
 尚、早苗保育園と隣の緑ヶ丘中学は、上北沢村設立当時からの家柄と言われる「鈴木家」本家の居住地であった。江戸時代には、上北沢の「凝香園」として牡丹園が有名で、「東都近郊図」には「鈴木左内の庭には牡丹数百品あり」と記されてあった。
 牡丹以外でも、「半蔵の藤」「喜太郎の霧島つつじ」「密蔵院のしだれ桜」なども有名で、文人墨客が上北沢をしばしば訪れていた記録が残っている。