6.街歩き「上北沢のルーツ」

 

 今日の街歩きは、上北沢のルーツを訪ねましょう。 現在「桜上水」となっている町は、1965年までは、上北沢の一部で、むしろこちらが昔の村の中心で、戸数は1828年頃には現在の上北沢1丁目を含めて約70軒でした。その他の上北沢、つまり現在の上北沢2〜5丁目合計は約30軒ほどでした。
 各項目のタイトルの@〜Fは、文末に示した参照資料の番号です。


[クリックで画像が開きます。]

1.北沢用水 A、C、F
 写真は、現在の都営アパートの始まる地点から現在のコートテラスのマンションに向かって撮られた風景で、写真に見える森は「井出さんの森」であった。
 さて、最初の地点は、北沢用水跡である。この用水で、ザリガニをとったりした事を思い出していたが、現在は暗渠になっている。更に10mも行くと、もう一本の用水跡が有る。この用水も今は地下に埋められ、わずかにマンホールから、雨で勢いのある水音が聞こえるので暗渠である事が判るが、緑道になっている。この緑道を真っ直ぐ進めば、「江戸城御囲いの松の兄弟松」・「左内弁才天の祠」がある。
 この緑道の南側は、昭和20年代までは小さな林があって、賀川豊彦さんの御自宅があり、「森の家」と名付けられていた。
 上北沢は、烏山と並び地下水の豊富な地域で、水路を作って湧き水を上手に活かす事で、古くから稲作に役立てていた様で、平安中期には、世田谷区最古の八幡神社を京都から勧進できた事が、かなりの数の人々がムラを形成していた事を証明していると言える。
 1658年には、4年前に完成した玉川上水から飲料水としての分水も許可され、さらに1670年以降は玉川上水の拡張工事によって、「北沢用水」として下流の村々の田畑にも利用できる様になった。
 北沢用水が完成すると、北沢用水を利用する村々は、用水管理の為、緊密な連絡が必要になる。現在は殆ど交流の無い「梅丘」や「代沢」とも、当時は緊密な関係にあったと思はれるし、用水管理の主導権は「上北沢」が握っていたのではないかとも思われる。
 なお、玉川上水の内、井の頭−高井戸間は、江戸時代以前に、井の頭の水を利用する為に、鈴木・秦(久我山)両豪族が掘削していたと言われる(北沢用水は高井戸から分水)。
 なお、「烏山用水」と「北沢用水」は池尻で合体し、目黒川と成り江戸湾に注いでいる。

2.北向地蔵 A、B
 北沢用水から南に坂道を上がり切った所を右折して細い道を南に進むとT字路になる。この交通量の多い道は、下高井戸の甲州街道から別れ、松澤小学校や日大の前を通り八幡山の八幡神社に達する「滝坂北道」と呼ばれる古道で、「滝坂道」や江戸時代の上北沢村の中心部と甲州街道を連絡する重要道路だったので「北沢道」とも呼ばれた。この道に面して北向地蔵が祀られている。石台の正面に、「三界万霊、上北沢村女中念仏講中」。東側に「為貴泉妙保信女菩提、施主鈴木万右ヱ門娘、宝暦9年4月29日」とあり、鈴木家の分家「新屋敷(あらやしき)」の娘のためにその姉妹が1760年に建立し、分家が現在の上北沢3丁目に有ったので、その方向に向けられたものと推測されている。

3.水車堀 F
 北向地蔵から滝坂北道を1ブロック西に進むと、水車堀跡の暗渠に到達する。この暗渠を南下すると「荒玉水道道路」と交差し、暗渠が消えてヤット「水車堀」が現れるが、民家の裏側を通っているので、貴重な史跡にもかかわらず荒れるに任せてある。
 この「水車堀」は、「北沢用水」の分流であるが、上北沢地区会館の屋外トイレ付近から東に抜け、村内の標高の高い地域の畑を潤しながら東に流れる「北沢用水」支流とは、自動車学校前で別れ、滝坂北道を東に進み、先程我々が南に曲がった所から「密蔵院」前に至り、さらに水車場に向かう堀である。現在は使用されていない。
 なお、自動車学校前で別れた北沢用水は、南に方向を変え、「長徳寺」脇を通り「江下山ドブ」となり、現在の経堂小学校北側を通り、「宮坂3丁目」付近で、左内弁才天から来た「北沢用水」本流と一緒になるが、現在はかなりの部分が道路となっている。

4.密蔵院 A、B、D、E
 「水車堀」をたどって行くと、密蔵院に到着する。このお寺は、「八幡様」とともに、上北沢の歴史を語る上で欠かせない存在である。
 1580年、下野都賀郡水代城主の榎本重泰・氏重親子が、上北沢の地頭鈴木重貞を頼って上北沢に住み着いた。続いて、榎本氏重を頼って、同郷の僧・頼慶が訪れ、鈴木重貞の要請で、観音堂の住職になった。1598年、観音堂は新義真言宗に帰依し、「密蔵院」が創建され、鈴木家・榎本家の菩提寺となった。密蔵院からは、総本山の管長も出ており、寺院の格も高いようである。
 密蔵院は江戸時代に「彼岸桜」「しだれ桜」が有名で、江戸市内からの見物客も多かったと言われている。
 門前に、庚申供養塔が2基あるが、20年ほど以前には、「庚申塚」はこの辺りでは道の角などに何処にでも見られたものであったが、現在ではほとんど見られなくなった。民衆の土俗信仰として、庚申の日に、夜どおし寝ないで供養したもので、古い庚申塚が無くならない様にと、寺が門前に立て替えたものと思われる。

5.水車場跡 E、F、@
 込み入った水車堀をたどって行くと、細い急勾配の小径に出る。
 「緑ヶ丘中学校」グランド南端の道路を隔てた向かい側{桜上水2丁目21番地}にあたるが、往時はかなり大きな建物が建っていたはずで、想像がつかない。
 江戸時代、文政年間に刊行された紀行文[遊歴雑記](1814〜1829)の記述によると、当時の上北沢村名主鈴木左内の舎弟が経営し、“水車屋の藤棚は、長さ21間幅2間、花の長さは4尺余あり、”とある。有名な「半蔵の藤」であるかは不明。
 記録としては、明治30年(1897)に榎本勝太郎の名前で水車稼業の許可が下りており、杵12又は13・挽臼(直径1尺8寸)2を稼動し、年間生産量 粉1,440石・米260石 とある。そばに小さな空き地が有るので、説明板と記念碑でも建てたらいかがだろうか。

6.鈴木左内邸と長屋門
(「せたかい」Vol.52 世田谷区誌研究会)

 16世紀末頃に上北沢の地に来住し、密蔵院を創建して、代々名主として地域の発展に尽力してきた鈴木家(当主は代々“左内”を名乗る)は、現在の「緑丘中学校」「早苗幼稚園」などの広大な敷地に居を構えていたが、昭和20年頃には人手に渡り、その建物は昭和20年5月25日の空襲で焼失した。また、この時焼け残った大きな茅葺の長屋門も、昭和23年、中学校建設に先立って取り壊された。
 長屋門があった入り口は、現グラウンドの南端中央で、そのアプローチは「早苗幼稚園」脇の道路であった。門をくぐると正面やや右側に母屋があり、その建物の裏にあったのが、今校庭中央にそびえる大ケヤキである。また母屋の後ろは杉林と竹薮に囲まれていた。

7.牡丹園 E
(凝香園=ぎょうこえん 文政年間((1817)〜明治初頭(1870)?)

 当時江戸名所のひとつ。江戸市中から多くの文人墨客が訪れ、大変な賑わいであったという。場所は、鈴木左内邸門前の道を挟んで向かい側{桜上水2丁目11番あたり?}。
 前出の紀行文[遊暦雑記]によると、“牡丹の花は凡そ385種、花は皆違っていて、一つとして普通のものは無い。大変珍しく、感心して褒め過ぎることは無い。これ程素晴らしいとは思はなかった。 まっすぐ進むと甲州街道に出ると言う、西へ向かう通りには、よしず囲いの茶屋が並び、そば切、粟餅、茶漬、団子、菜飯、田楽等を商い、南の高台には料理屋が建っており立派な身分の人達が休んでいる。人が入っていない店は無いようで、ここまで来る途中では、見物の人もあまり居なかったが、ここはまるで盛り場のようだ。”などと記している。{小石川から往復八里=32km・日帰りの歩き旅}
 江戸時代の上北沢は、「凝香園」以外にも「半蔵の藤」「喜太郎の霧島つつじ」「密蔵院のしだれ桜」なども有名で、文人墨客が上北沢をしばしば訪れていた記録が残っている。

8.「江戸城御囲い松」の兄弟松、
     「穂積稲荷」と「北沢用水緑道」 A、B

 早苗保育園の東端「旧北沢用水」の緑道に面し、黒松の古木が2本有るが、御囲松として江戸城に植樹された苗木と同じ黒松で、樹齢約380年といわれる。
 当時、鈴木家は植木職人として江戸城に出入りしており、鈴木宗保が15・6歳の頃、江戸城御囲いの松苗木納入の命令があり、父に代わって江戸城に運んだが、子供なので役人が城内に入れようとしない。皆の衆も途方にくれていると、宗保は町方に出て前髪をそり落とし、大人の姿で役人の前に現れた。役人も彼の機転を評価して城内に入れ、宗保は役目を果たす事ができたという。
 江戸城は、1606年から大修築を開始し1636年に完了しており、この話の時期は1627・8年ごろに相当する。上北沢では「植木屋」と言えば「鈴木さん」であるが、「江戸城出入り」としての権威があったことが判る。
 「御囲い松」の傍に「穂積稲荷」がある。
 このお稲荷様は、本来は鈴木家の土地であった現在の日本大学の土地に鎮座していたが、日本大学に土地を売った時に、こちらに遷座したもの。「穂積」は、鈴木家の神話時代に、長脛彦討伐の際、賜った苗字で、その後25代経って「鈴木家」が発生した由緒有る名前と伝えられている。
 今歩いているこの道は、「北沢用水」のあった所で、次の「左内弁天」まで続いている。

9.左内弁才天社の祠 A、B
 「兄弟松」より約100メートルほど先に小さな祠があり、古来より「弁天社」と呼ばれているが、ここには北沢用水につながる大きな池があった。
 伝承によると: 或るとき、鈴木家の娘が居なくなり、村中で大騒ぎになった。
 一月ほど経ったある夜更けの事、娘の声で「御心配をお掛けしました。私は鈴木家と村を守るため、井の頭の池の主のところへお嫁入りしたのです。どうか探さないで下さい。」と言うのが聞こえたので、急いで雨戸を開けて庭を見ると、草木が押し倒され一筋の道ができており、それをたどって行くと井の頭の池でまで続き、そこで消えていた。
 ほかの伝承では、昔鈴木左内家の娘が親の許さぬ恋が原因で、井の頭の池に入って蛇に為り、上北沢まで蛇で戻ってきたので、左内邸の傍に弁天として祭った。という。
 この他にも2・3話あり、それぞれ異なるバックグランドが有りそうだが、北沢用水の水元を管理していた秦氏に関係している様に思われる。鈴木家から秦家には嫁に行っており、両家は親戚関係にあった。「1.北沢用水」の話と関連して理解いただくと良いと思う。
 上北沢村の中では何本もあった北沢用水は弁財天の池で一緒に為り、現在のアパート前の道路である辺りを流れて下流に下っていた。
  なお、自動車学校前で別れたもう一本の北沢用水は、現経堂小学校の先でこの流れに合流していた。

10.勝利八幡神社(桜上水4-21) B、D
 1026年(万寿3年)に京都の石清水八幡宮を勧請した、恐らく区内最古の八幡神社。
 当時の上北沢村は、「古・府中道」と「滝坂道」に面している上に、稲作の収穫量も多く、村落を形成する条件は平安時代以前から十分整っていたと推測される。
 本殿右側には、1788年(天明8年)製作の旧本殿が保存されており、区・指定有形文化財になっている。
 区内の八幡神社は、鎌倉の鶴岡から勧請されたものが多く、石清水(いわしみず)から勧請されたものは都内でも少ない。その社会的背景を研究すれば面白い結果が出て来るのではないかと思われる。

 

参考資料:
@ せたがやの歴史     世田谷区史編さん委員       昭和51年9月25日
A わたしたちの郷土    上北沢桜上水郷土史編さん会    昭和52年7月
B ふるさと世田谷を語る(上北沢桜上水) 世田谷区生活文化部  平成8年3月
C 世田谷の歴史散歩(上) 世田谷区教育委員会        昭和56年7月
D 一歩二歩散歩      世田谷区区長室広報課       昭和62年3月1日
E 資料に見る江戸時代の世田谷  下山照夫 編 (岩田書院) 平成6年12月
F 世田谷の地名(上)   世田谷区教育委員会        平成元年3月

Bは内容も豊富で読み易く、上北沢の近隣地区まで読み進むと、上北沢がもっと理解できる事項も出て来たりして、是非一読をお勧めしたい。
Fは古地図が多く、一読の価値あり。